067273 ランダム
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紫陽花色の嘘

紫陽花色の嘘

ルームメイト 4

 由佳というのは、貴史の愛人だ。
 四年前結婚した貴史は、実家を二世帯住宅に改築して母親と同居している。その母と、貴史の妻である恵美さんはあまり折り合いがよくなかった。恵美さんは、どちらかというと地味な、おとなしい人で、家庭的な雰囲気を持っている。しかし、どんな女でも母は気に入らないのだった。貴史に執着している母にとっては、どんな女性もライバルなのだろう。――実の娘である、私でさえも。
 貴史は、母に対しては当たり障りのない態度で接している。好き嫌いは別として、血のつながった母親という立場は尊重しているのだろう。愛してもいないくせに、法律上の妻であり、子供たちの母親という立場だけを尊重していた父親とそっくりだ。
 恵美さんの妊娠中に、貴史はよそに女を作った。そんなところまで父親にそっくりになってしまった。
 しばらくは上手く隠していたのだが、最近恵美さんにばれたようで、彼女は一人娘の愛里ちゃんを連れて実家に帰ってしまっていた。
 愛人と話し合うということは、そっちと別れて恵美さんとよりを戻すつもりなのだろう。結局、子供の存在は重いのだ。浮気ばかりしていた父でさえ、子供である私たちのために、という理由で母と別れることはなかった。それが私たちのためになっていたとは、決して思えないのだが。
 恵美さんに恨みはないが、ついこの間まで愛人をやっていた私としては、複雑な気持ちだった。

「おとーとさん、来るのー?」
 ナナコの声で、我に返った。
 ナナコは、いつの間にかグラスのワインを全部飲んでしまったらしい。ソファの上で体育座りをし、頬杖をついて私のことを見ていた。
「来るのは、明日」
「ふーん」
 ナナコの頬は、うっすらと染まっていた。目のふちも、ほんのりと赤い。
「果南ちゃん、おとーとさんと、仲いいもんね。そういうの、ブラコンっていうんだっけ?」
「……貴史のこと、ナナコに話したこと、あったっけ?」
 私としては話した覚えはないのだけれど、泥酔していたときに話していないとは保証できない。
「あったよぉ。いっつも言ってるじゃん。貴史と私は戦友なのよ、って」
「そうだったっけ?」
 私は、ワインに酔ったわけでもないのに赤くなった。ナナコは私を見て愉快そうに笑った。
 それにしても、そんなことまでナナコに言ってしまっていたとは。私はよっぽどナナコに心を許してしまっているのだろう。十二年もつきあっていた北嶋にさえ、どんなに酔っていても、貴史のことをそんなふうに話したことはなかった。

 貴史と私は、戦友。家庭という戦場を共に戦った、仲間。
 なんて大げさで子供っぽい物言いだろう。
 浮気ばかりしていた父。育児放棄していた母。
 友達には話せなかった。幸せな家庭に育った人たちには、きっとわからないだろう。私が餓えていたものについて。私が心底欲していたものについて。――悩み事を話すには、きっと、私はプライドが高すぎたのだ。心の内を話して中途半端な同情を買うよりも、私は満たされた、明るい子供のふりをすることを選んだ。そしてそれは、ある程度うまくいっていたと思う。誰も私が悩んでいることなんて気づいていなかったから。貴史以外は。
 何も言わなくてもわかってくれるのは、貴史だけでよかった。いつしか貴史は、泣いてばかりの子供ではなく、落ち着いた、温かい手を持つ少年になっていた。
 私たちは、いつも一緒にいた。何ヶ月も掃除のされていない、生ゴミ臭い寒い部屋の中で。久しぶりに顔をあわせた父が母を口汚く罵っているときも、酒を飲んだ母が酔って食器を床に投げつけているときも。
 子供部屋で、悲しい物音が耳に入らないように、二人でひっきりなしにおしゃべりをした。他愛もない話で笑い転げていた。お互いの温もりを求めて、一緒の布団で眠った。
 そうやって、私たちは成長した。

「でぇもぉ、成長するって悲しいよね」
 ナナコは、ワイン一杯で完全に酔っているようだ。呂律が怪しくなっている。
「悲しいって、何が?」
「何もかも。みぃんな変わっちゃうの」
 ナナコは、ふぅっとため息をついた。ときどき、すごく子供っぽく見えるときもあるのに、こういう時は、私よりもずっと年長の女のようにも見える。本当は、ナナコはいくつなんだろう。
「あたし、ちょっと寝てくる。四時になっても起きなかったら、起こして」
「うん、わかった」
 ナナコは、少しふらふらしながらグラスをシンクにおくと、自分の部屋に戻った。
 私は、自分のグラスに、残っていたワインを全部注いだ。今度はゆっくりとすすりながら、ナナコの言っていたことを考えた。
 みんな、変わった。そう、それは真実だった。
 私は妻子持ちの男の愛人になっていた。貴史は妻子ある身で愛人を作った。
 大人のしたことに誰よりも傷ついていたはずの私たちが、いつの間にか同じことをする大人になっていた。誰が、そんな未来を想像していただろうか。二人で同じ布団にくるまりながら、凍るような月を見ていた、あの頃。
 


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